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納税者には権利がある!? [仕事雑感]

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一緒に歩いていた優秀な女性が、「行政サービスにお礼を言うのはおかしい。私は税金を払っているのよ」と言いいました。役所が道路舗装をきれいにしてくれて、良かったという話の中で出てきた一言です。

あるベンチャー創業者にインタビューしていたとき、「こんなに税金を払っているのでから、もっと優遇して欲しい。納税額に応じてサービスを利用するときの優先権があるとか、見返りがあれば、もっと気持ちよく納税できるだろう」という話を聞かされました。

自治体職員は、住民のことをお客様と呼びます。そして第三者評価などで、住民の評価をとても気にしながら仕事をしています。

「お前らは俺たちの税金で食っているのだろう」と行政職員を卑下するような言い方聞いたことがあります。

さて、これは妙ちくりんなことになってはいませんか?

税金を行政サービスの料金なのでしょうか?

行政サービスとは、商品なのでしょうか?

税金を払ったのだから、してもらって当然という風潮がはびこっています。これは、行政が地域の声をよく聞こうというなかで、住民をお客様扱いして、さらには企業がお客の評価から自らの成果を判断するのと同じような考えを行政の業務に持ち込んだことで増長されています。

社会保障を取材しているジャーナリストとして、こうした風潮には、とても違和感を覚えます。

そもそも、国家の役割と何なのでしょうか?

軍事や警察がコアにあって、インフラ整備や福祉もしていますね。それらは社会秩序と安定、経済活動の円滑化といったことが目的です。

身近なところで保育園はどうでしょうか。

個別家庭の課題解決というサービス行に見えますが、本当のねらいは、親がフルタイムで子育てできなくなっても、子どもの生活と成長が保障されるという社会の安心を生み出すことがその存在意義です。だから、運営費の経済性や利用率だけで事業を評価することはできません。子どもが一人しかいない僻地保育所も運営する意味があるのです。

個別の事情に対処することは国の役割ではありません。だから施策の一つ一つで、これが社会にとってどういった意味があるのかアセスメントをしていかなくては判断ができないでしょう。

もちろん現場レベルでは、個別事情の問題解決にあたるのですが、そうしたアクションが社会の安心や秩序につながっていることが、そもそも重要なのです。

ですから、税金は行政サービスの利用料ではありまあせん。

しいていうならば、この秩序や安心のある社会で暮らすた権利を得るための義務でしょうか。だから憲法には、納税の義務は明記されているけれども、納税者の権利には触れていないのです。

ただ納税者の権利については、国際的な議論があるようです。ただそれば納税するための権利といった内容で、適正に納税できるよう国などが環境を整えることを求めているものです。

また、納税者と納付義務者はわけて考えましょう。課税所得がなくても国民は納税者ですし、納付義務者でなくても、この日本社会の正式なメンバーです。だから納税額の多少によらず、堂々と社会福祉給付を受けることもありな訳です。受給者は、社会に迷惑をかけているなどと、自らを卑下する理由はどこにもありません。

そうした視点から、社会保障の記事を書いています。

文責 ソーシャルジャーナリスト 安藤啓一

 


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業務連絡! [仕事雑感]

ごめんなさい

メーラーで迷惑メールのフィルタリングがオート設定になっていたことで、重要なメールがいくつも未読になっていました。PCを新調してから、数十の必要なメールが迷惑BOXに放り込まれていました。

まだすべてチェックしきれていませんが、未読のためご迷惑をおかけしたであろう複数のメールが見つかっています。

もうほんと、こんな機能があったこと、知りませんでした。

スクロールしなければこのフォルダがあるとわからず、見落としていました。デフォルトでオートになっているのは困るなぁ。勝手なことするなよ(怒)という気分ですが、とにもかくにも、ご迷惑をおかけし申し訳ございませんでした。

ソーシャルジャーナリスト 安藤啓一


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経験型ジャーナリズム [仕事雑感]

早すぎます!

そうこうしているうちに、1月が終わろうとしています。手書き派の私は、システム手帳でスケジュール管理をしているけれど、それを開けるたびに焦りまくりです。

年が明けてから、リハビリテーションの特集を1本まとめて、先週は地方で講師の仕事をしていました。その間、今春に立ち上げようとしている経験型ジャーナリズム事業の準備を粛々と進めています。

昨年はデジタルパブリッシング元年だと、この業界は大騒ぎしていたけれども、その実態はどうなんでしょうかね。

blogなどの個人メディアが影響力を持っているように見えるけれど、それは極端な言い方をすると閉鎖されたカルトコミュニティです。ネットの基本行動は検索だけれど、これは本人が期待する情報へ合理的に到達できるものの、意図していない新情報と巡り会うチャンスは低いものです。

テレビのニュースショーでは、興味ない映像も(強制的に)視聴させられます。紙媒体の新聞にしても、頁をめくれば、これまで関心のなかったニュースの見出しを見ることになります。そして「えっこんなことが起きているの!?」とつい読んでしまい、そうしたkとの繰り返しで自分の興味の世界が広がっていきます。リテラシーや教養の高まるチャンスがたくさんあります。

情報制度にしても、個人メディアはプアです。プロフェッショナルメディアの多くは紙媒体を活動拠点としています。そして新聞雑誌といった紙媒体は、一端発行してしまうと修正がほぼききません。だからコンテンツ制作は驚くほど慎重です。

企画会議で取材方針を整理し、コンテンツ制作でも記者の他、編集長や校閲、さらに複数回の校正を経て、ようやくリリースされます。この地道な作業によって、記事は推敲され、情報内容についても確認作業が行われます。これが放送メディアだと、基本残らないのでミスをしても、「忘れる」ことができるけれど、紙媒体は社会に蓄積され、繰り返し利用される性質のため、とても高いレベルでコンテンツクオリティを要請されています。

それがネットメディアになると、軽いものです。修正や削除ができることから、制作過程の推敲作業が甘いですし、このblogにしてもそうですが、個人メディアはお手軽に情報を発信できます。そのため、自分の記事にしても、blogよりも紙媒体で発表した記事のほうが、明らかにハイクオリティです。はい、もうまちがいござません。

ところが、このクオリティを出す技術の換金性が地に落ちていて、どうしたものかと思案中です。「本が売れない」という万回聞いた愚痴を自分で繰り返すつもりはないけれど、食えなければ、続けられないわけで、事業モデルの再検討に迫られています。

そうしたとき神のささやきが!

いえね、とある対談で聞いたコメントで、「CDはコピーできるから、売れないの。これからは、コピーできないものを売らなきゃダメ。そう、個人的な体験を提供するのです。ライブとかね」

なるほど、ひらめいてしまいました。

ジャーナリズムは、一般の人たちに見えにくい真実を伝えることで、新たな行動につなげる刺激を起こすことだとすれば、真実を伝える媒体(メディア)は、何も記事や映像でなくてもいいわけですね。

そう考えて、今年は経験型ジャーナリズム事業を立ち上げようと準備しているところです。1万人を相手にするよりも、10人に真実の経験を提供することで、その10人が10人にそれを伝え、さらに100人がそれぞれ10人に伝えると、3回の伝言ゲームで1万人になります。この伝言はSNSでもオッケー。ただしい、伝言のスタートで十分なクオリティを出しておくことで、全体として情報のクオリティを担保していきます。

この新しいメディアは、ツーリズムや物販といった既存のツールを活用して構築する予定です。少しずつですが、賛同してくれる協力者もでてきました。

どこまでできるかわかりませんが、2013年前半はこれを中心に活動していく予定です。
                                     


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選挙結果に、何を感じましたか? [仕事雑感]

選挙の結果はショックでした。

自分の感覚と、社会の皆さんが期待している思いと、ここまで乖離があるとは……

これでは、自分の書いた記事は、読者にまったく響いていないでしょう。

ネットを通じてコメントをいただいたり、直接感想を伝えて頂いているなか、記事の手応えを感じるこはとあります。けれども、この投票結果は……

自分の視点がは、ズレているのでしょうか。

昨日、お会いした首都圏のとある有名市長さんは、「政治家は耳が遠くてちょうどいい」とおしゃってました。「政治家は、国民の声を聞くというが、そういうことばかりしているから国がダメになる」といった主旨での話でした。

あれこれ、国民の声ばかり聞いてたらブレるし、中長期で考え決断することはできないのに、政治家は国民の声を免罪符にして決断から逃げていると、厳しい指摘をしていました。

自身の選挙もあった翌日ということもあったけれど、「選挙を気にしていたら政治はできない」とキッパリ。平成の合併で、超巨大になった行政区を見事にマネジメントして、しかも財政的にも優秀。穏和な雰囲気の市長ですが、その目に、郷土命の炎がメラメラ。だから子どもたちの育ちにも真剣です!!

話が脱線しましたね。

ジャーナリストとしての自分をみつめたとき、この選挙結果から強い不安を抱いてはいるけれど、自らの感性を信じて、記事を発信し続けるしかありません。よりどころは、唯一自分だけですから。そのためにも、インプットを強化するとともに、アウトプットの立て直しを考えていきたいと思います。

    ◇

原子力の利活用推進、自由競争による結果の個人責任を強化、軍事による外交の強化、子育て社会化の否定、次世代育成よりお年寄りの個欲を尊ぶ品格のなさ…… それを歓迎する民度には驚きました


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震災の取材に行かなかった [仕事雑感]

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なぜ震災の取材に出向かなかったのか

旧知のカメラマンが撮影した震災取材の作品を見ていて、心のことを書きとどめておこうという思いました

自分がジャーナリストという職業を知ったのは戦争報道でした。ベトナム戦争世代ではないけれど、冷戦のなか、世界中に戦争がありました。

アフガニスタンの旧ソ連侵攻、カンボジア内乱、イランイラク戦争、フォークランド紛争、パレスチナ、リビア湾のアメリカ軍封鎖、中米軍事政権やクーデターなど、10代の頃、世界中に戦争がありました

まだインターネットのつかえない時代ですから、本を読みあさり、ドキュメンタリーを見まくり、写真集も手に入れました。

その興味は世界のあちこちにある理不尽さへと広がっていきました。そうしてたどり着いたテーマの一つが社会保障です。個人では耐え難い、理不尽な問題を解消して社会の安心を導くものが社会保障だと思うのです。

それなのに、東日本大震災に直面し、自分はジャーナリストとして動けませんでした。(……半年後にはルポした)

それはジャーナリストとして、震災を記録に残すことよりも、子どもたちを守ることを優先したからです。

原発事故が起こり、被爆から子どもたちをどうしたら守れるか、そのために2011年の春は行動しました。

これは、職業者としては完敗です。

ただ、自分の人生をかけるものとして子育てを考えているから、それを投げ捨てて、取材に旅立つなど、できる選択ではありませんでした。

だから結婚や子育てをしたくないという人もいます。子どもが自分のキャリアの足かせになるといいます。

しかし、自分が親になったことで、考えに深みがでました。それは生き続けることへの覚悟です。

学生の頃、本を読みまくっていたとき、作者のプロフィールで、子どもの有無が作品性に大きく影響していると気づきました。子どもがいないと、作品に現実と夢のどろどろとした葛藤というか、生き抜くことの生々しさが醸されにくようなのです。

それは、無意識のなかにある、生き続けることへの覚悟なのだと思います。

いつの日か、この覚悟を持ちながら、現場へ駆けつる日が来るでしょう。そのとき、子どもたちは、自分の生き方を見て、どう思うのでしょうか。いや、見られてない方がいいですね。親は勝手に生きていきますから。


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TPPと新自由主義で幸せな社会をつくるために [仕事雑感]

TPPによる自由貿易だとか、新自由主義でマーケットが大きくなるそうだ。

自由と言われただけで、なんとなく豊かで幸せな社会をイメージしがちだけれど、ちょっと立ち止まって考えてみよう。

TPPや新自由主義は、一部の企業や富裕層だけがその恩恵を大いに受け取るけれど、大多数にとっては厳しい結末が待ち受けるのだと、こうした動きに警鐘を鳴らしている経済や社会保障の専門家もまた多くいます。

ところで、自由で幸せな社会とは、どういった姿だろうか。そこから、この問題を考えてみました。

国民ぞぞれぞれが、好きな生き方を選択できる自由の保障された社会が理想だと考えます。そうした社会では、もちろん自分の価値観とはまったくことなる生き方を目指す人とも隣同士の暮らしになるけれど、お互いがその違いについて寛容で、認め合うことができます。

そして寛容さを持つには、暮らしのゆとりが必要です。もし、いつまで仕事を続けられるか分からないような雇用環境であるとか、結婚して親になっても子どもに十分な教育機会を与えられるか将来を楽観できないような社会では、「ゆとり」がありません。だから異なる価値観を持つ人は、自分の暮らしを脅かす存在となり、それを排除したくなるでしょう。価値観の多様性など、許容できません。

ところが「ゆとり」があれば、自分が期待している暮らしにネガティブな影響を少しは与えるかもしれない他人の価値観について、それを受け流すだけの余裕があります。その他人やグループがいることで、もし世帯所得が10%減ったとしても、もともとの暮らしに「ゆとり」があって、将来についても安心感を抱けていれば、そのことを引き受けることができます。

そうした多様性の豊かな社会では、自分の生き方を自由に選択できます。

ところが競争によって効率を追い求める社会では、そうした人生の自由は保障されません。

自由な競争は、一部の勝者と、多くの敗者を生むことになります。多くのプレイヤーがいれば多様性が保障されるけれど、一部の勝者しかのこれないのだから、自由競争は画一化へと収斂していくでしょう。

一部の強者が世界中から富を引き寄せるから、所得再配分によって社会全体が豊かになるとの論があります。もし、その通りに、多くの敗者も、おこぼれにありつけたとしても、それは勝者の価値観によってもたらされる物だから、画一的なものになってしまいます。

敗者は、勝者の論理を引き受けなければおこぼれにあずかれません。

そうした社会は、本当に豊かなのでしょうか。社会は、例えばGDPは一部の勝者のおかげで増えるでしょうが、そこに自分の居場所はあるのでしょうか。

豊かさの源泉は、多様性だと考えています。たくさんの価値観が混沌と存在しているから、教養も深まり、社会全体として創造力も高まるでしょう。

ちょうど日本は国政選挙のただ中で、多くの党首が、いろんな持論を叫んでいます。それらを聞きながら、今の日本にある、多様性への寛容さを、どうすれば高められるのか、考えてみました。

自由競争はおおいに結構だが、一人勝ちや勝ち逃げを許さない、フェアな競争とは真逆の理不尽な規制も残しておく、そのバランス感覚が必要なのかもしれません。

 


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チェンジの世代 そして選挙 [仕事雑感]

__.JPG (白州の森) 

第一次ベビーブームに生まれた人たちは、偶然にも歴史の分水嶺に立っています。

彼らが意図しなかっただろうけれども、21世紀から振り返ると、彼らが少子高齢に社会がチェンジした、まさにその当事者であることは、人口ピラミッドの統計を見ればすぐに分かります。

ただね、あなた達のおかげで少子高齢社会になったじゃないのよ! などと責めるのも見当違いです。

例えば、彼らが結婚して、4~5人の子どもを産んでいたら、今頃日本の人口はどこまで膨れあがっていたことでしょう。

日本の耕地面積は約450万ヘクタールですが、現在の人口で食べていくには、ちょうどの規模だと、農業の専門家は話していましたら、人口規模としては現状がベターということです。

そして社会保障の視点で、第一次ベビーブーム世代のことを見たとき、あなたたちはどっち派なのかい? という問いがでてきます。

これまでの社会保障の仕組みで暮らしていく最後の世代となるのですか?

それとも、新しい社会保障を拓いていく第一世代として歩んでいくのでしょうか?

これまでの社会保障の仕組みは時代遅れ、機能不全を起こしています。人口動態だけじゃなく、個人の価値観なども豊かな社会になったことで、以前とはだいぶ違います。だから、新しい社会保障を考える必要があって、それで政府でも社会保障改革を進めてきたところです。

そしてこの変化を歓迎する人と、旧システムを少しでも延命したい人がいます。

どのタイミングで社会保障をチェンジするのか、そのキャスティングボードを握ってるのが第一次ベビーブーム世代を中心とした、今まさにこれから高齢者になろうという人たちです。

人口が多いから、政策決定への影響力があります。また、社会保障給付に関わっていく年齢でもあるからです。

おそらく、旧システムを選んでも、なんとかやりきることもできるでしょう。

ただ、今保育所に通っているような子どもたちが孫を持つようになったとき、この社会が安心して暮らせるものであり続けるためには、一刻も早いタイミングチェンジする必要があります。

もし旧システムを選んだら、2,30年は遅れてしまうから、そのダメージはとてつもなく大きくなります。

この年末には選挙があるけれど、そうした視点で議員たちの行動を見ていこうと思います。


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団塊の世代よ、いつまでもスタイリッシュに [仕事雑感]

(前回投稿のコメントに応えて)

年金制度が誕生したときの平均寿命は60歳台でした。お年寄りはほとんどいない社会でしたから、これは高齢者の社会保障をねらったものではなく、実質的には形をかえた徴税でした。そして、給付対象はほぼいないことが前提だったので、湯水のように使いまくったわけです。

また、平均寿命があがってきても、今とは違って、経済規模は拡大していくのが当然の世の中だったので、今使っても、後から簡単に穴埋めできるだろうと思ったのでしょう。

しかし、誤算でした。

これからの経済規模は現状維持でしょう。そうすると、社会は今ある資産を食いつぶすことが許されず、かといって、団塊の世代は多くて子ども2人の核家族だったから、現役世代に老齢者の養護を期待することもできなくなってしまいました。

そういった社会の転換点にあるのが団塊の世代です。

彼らは、親の介護とか、年金もそうですが、上の世代を高い責任感で養護してきました。また、子どもの数は少なくても、教育も含めた子育て費用の家計負担率がとても高い社会なので、子育ての負担も少なくなかったでしょう。

それでここにきて、年金などの社会的養護の縮小です。これは、ふつうの感覚だと頭にくるでしょう。「どうして、私たちばっかり」とね。ただ、子どもたちの未来を考えたら、どういった選択肢が残されているのでしょうか。

それは、65歳以降も社会の構成員として役割を担っていくライススタイルだと思います。

例えば、介護福祉士という仕事は、高齢者にぴったりの仕事だと考えています。介護は公定価格なのですが、報酬単位が低く設定されているため、子どもたちを大学や大学院へ進学させるのに十分な稼ぎになりません。そういった仕事は、若者に任せるべきじゃなく、所得よりもやりがいなどを優先できる、アフター子育ての団塊の世代が積極的に担っていくと、スムーズに高齢社会へ移行できるでしょう。そして、若者や現役世代が、優先的に所得の高い仕事に就けるよう、社会的なインセンティブを用意することなども必要です。

このように、豊かな老後?とった従来の固定観念を捨て去り、新しい65歳以降のライフスタイルを目指す時です。そして、後に続く世代があこがれるような、そういったスタイルのある生き様というのを、見せてほしいと、期待しています。


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団塊の世代を逃がすな!! [仕事雑感]

aki.JPG@hakusyu

戦後の第一次ベビーブーム時代の1946年から54年頃に生まれた人たちが続々と老齢化しています。定義として高齢者は65歳以上の人となっているので、48年生まれの人たちもそろそろ高齢者です。

今、日本の社会は高齢化が、大問題となっています。マスコミは年金など、彼らの短期的な損得のことばかりを強調していますが、問題はもっと深刻で、日本社会の根幹をぶち壊すほどの大問題です。

そして、気の毒な話なんだけれど、この問題を引き起こした原因こそが第一次べビーブーム世代です。かれらは、個人主義を強めて地域コミュニティを衰退させたし、大量消費のライフスタイルに突っ走ったし、子どもは1人か2人しか持たなかったし、そういったことの結果として、今の高齢社会問題があります。

だからといって、自業自得だと突っぱねることもできません。この豊かな日本社会を築いてきたのは、この人たちであって、豊かさと危機の両方は、彼らの人生の結果です。

ただ状況は深刻で、理念よりも、マネー問題という切実さです。そのため、社会保障改革も税制改革とワンセット考えなければならなくなり、消費増税ということにもなりました。

この問題を解決するためにキーワードは、世代内扶助です。かつては、老齢者の養護を現役世代が担ってきました。それは日本だけに限らず、世界の多くの社会でそういった考えを持っています。

ただ、この世代は核家族化によって、地域や家族による多世代共生の社会を破壊しました。その結果によってもたらされたのが、現在の豊かさであるから、今の時代で暮らしている自分は、そのことを否定できません。ただ、年金や医療の制度が想定している、世代間扶助は成り立たなくなっています。

そこで、所得はないけれども資産はある老齢者からも徴税する手段として、消費増税が決まりました。現役世代や低所得世帯に対しては各種控除や所得増税、最高税率引き上げ、給付による所得の再配分が強化されることになっています。

そして今、議論が最終段階にある改革の一つに、70-74歳の医療費自己負担2割が暫定的に1割となっている問題の解消です。社会保障審議会医療保険部会は16日、5年間かけて段階的に2割に引き上げる案を議論をしていました。

でも、これってすでに議論が尽くされていることで、後は決断する政治家の覚悟の問題です。

財政問題を考えると、第一次ベビーブーム世代は養護を受ける老齢者ではなく、社会の豊かさを担保する財を供給する人たちです。人口動態から見ても、この世代に資産の持ち逃げを許しては、日本社会は瓦解してしまうでしょう。そう考えると、最短で13年度予算から5年かけてという悠長な話じゃなくて、この国会で決断すべきことであったと思います。

自民党が先延ばししてきた課題を、民主党も手を付けず、震災復興のごたごたに乗じて逃げ切ろうとしている。現前与党は逃げ腰政権。小泉改革も、国民生活の豊かさを国家が守るという責任放棄だったし。

朝っぱらから、あれこれ考えると、週初めだというのにイライラしてきます。いっそのこと大政奉還して、王政にしてはどうかなどと、アホなことを思ってみたりもしますよ。

子どもたちの未来のために、いまこそ政治を!


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紙の新聞は、誰も読まない [仕事雑感]

久しぶりに乗った通勤電車で、ちょっとショッキングな経験をしました。

契約が切れたので、今月から自宅で新聞の購読がありません。毎朝、ポストに届くのは長女が読んでいる子ども新聞だけです。

だから、自分はキオスクで買うのね。

今朝は、打ち合わせに出かけるときエキナカのCVSで買おうと思って店に入ったら、入り口にあるはずの新聞コーナーがないじゃん。ありゃ、売り切れかと思って見渡したら、オニギリとかが並んでいる店舗奥にそれはありました。

よかった、よかったと、買えたことでホッとしてホームへ。そして車内へ。

新聞は好きなので、ニコニコ顔だったと思いますが、おもむろに車内を見渡したら、だ~れもいないの。新聞を広げてる乗客が一人もいないのです。他の人たちはスマホやタブレットをチョンチョンとはじいているじゃない。そして、大きな新聞をガサゴソと広げては、細かく折りたたんでいるような乗客は自分だけ!

みなさん、もう新聞などは、読まないのかしら?

自分が感心のない情報とも、アットランダムに巡り会える新聞は、好奇心をとてもくすぐる媒体で、大好きなんだけれどな。


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